GIANTSニュース
2007.05.11
「青い稲妻」松本さんの努力話



巨人軍OB選手が当時のエピソードを披露するトークショー「集え!ジャイアンツおやG!!」。今季第4回目は11日、東京ドーム22番ゲート前の「ステージG−KING」で行われ、松本匡史さん(52)が、「青い稲妻」と呼ばれ大活躍するまでの、血のにじむような苦労話を明かしました。
松本さんは兵庫・報徳学園高校、早稲田大学を経て、ドラフト5位で1977年にジャイアンツに入団。11年間の現役生活で1016試合3250打数902安打の2割7分8厘、本塁打29、打点195、盗塁342の記録を残しました。1983年にはセ・リーグ記録の年間76盗塁をマークしてベストナインにも選ばれ、盗塁王2回、外野手としてゴールデングラブ賞を3回受賞しました。89~97、2001年に守備、走塁コーチ、二軍監督などを務めました。
大学時代に肩を8回脱きゅうしたこともあり、松本さんはドラフトで指名されてもジャイアンツへの入団を拒んでいましたが、当時の長嶋茂雄監督に「大丈夫だ」と説得され、その日の入団発表に参加しました。本拠地だった後楽園球場がその年から人工芝になって内野安打が増え、松本さんのような俊足を生かした新しい野球スタイルが必要となっていたのです。
1年目から内野手として活躍し、「代走で出場したイニングで打席が回ってきて、満塁本塁打を放つ」といた珍記録も生み出しましたが、夏には左肩の脱きゅうが再発、3年目の5月に手術に踏み切り、左腰の骨を削って左肩に埋め込んで補強したそうです。
その3年目のオフ、伝説の「地獄の伊東キャンプ」に参加して、左右打ちに挑戦しました。午前7時に起床でしたが、松本さんが起きたら、すでに長嶋監督がグラウンドで待っている。あわててバットを持って出て行きました。初めての左打ちで、高いゴロを打つ打撃を習得するため「打ったボールをホームベースにバウンドさせろ」と言われたのですが、真下に切り下ろすようなスイングで、全然ボールが当たりません。それでも暗くなってボールが見えなくなるまで、食事も取らずにひたすら繰り返しました。また守備でも外野手に転向しましたが、厳しいノックでなかなかうまく取れません。悔し涙を流しながらボールを追いかけました。その様子を見てマスコミからは酷評されましたが、長嶋監督は「彼は絶対にうまくなる。なぜなら目からも汗をかいている。それぐらいやっているやつは、絶対うまくなる」と言っていたそうです。
キャンプ終了後も多摩川グラウンドで、結婚したばかりの奥さんにボールをトスしてもらって、正月返上で打撃練習を続けました。「実は12月に結婚して、長嶋監督に新婚旅行に行ってきますと報告したら、『そんな時間があるのか』と言われたんですよ」と松本さんは笑顔で打ち明けました。
その努力が実ってレギュラーの座を勝ち取り、走攻守に大活躍。青い手袋でダイヤモンドを疾走する姿から「青い稲妻」と呼ばれました。最初はホーム、ビジターとユニホームの色に合わせて白と青の手袋を使い分けていましたが、新聞記者から「どちらかにしてもらえないか」と言われたのが、命名のきっかけだったそうです。
当時は耳のカバーのついていないヘルメットが一般的でしたが、松本さんは左打席で右耳の後ろにデッドボールを受け、両耳のカバーのついたヘルメットを使うようになったのは有名な話です。また「けん制球のためヘッドスライディングで帰塁した時、ズボンに砂が入るのがいやだから」上と下がつなぎになったユニホームを使っていました。最近、そのユニホームを着てみようとしたら、腰あたりがきつくて着られなかったそうです。今でもかなり細身の松本さんですが、「当時、僕と篠塚(現打撃コーチ)は、体脂肪が2、3%でしたからね」と話すと、会場から驚きの声が上がりました。
「集え!ジャイアンツおやG!!」は、31日小林繁さんの参加者を募集しています。詳しくはこちら