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西鉄、大洋監督として「魔術師」の異名をとった名監督は、戦後の混乱期という最悪の状況の中で、巨人の指揮を取った。
早大時代、早慶戦での決死のホームスチールで一躍有名になり、巨人のプロ契約選手第1号として1935年、入団。兵役のため現役生活は短く、復員した46年からは読売新聞運動部で健筆をふるっていた。
「三原待望論」が巻き上がったのは47年。5月には8連敗で最下位に落ちるなど不名誉極まりない戦いぶりに、理論家としても知られていた三原に白羽の矢が立った。同年6月3日、助監督に就任。次々に補強を行い、投手ローテーションを確立したが、その年は結局球団創立以来初のBクラス、5位に終わった。
同年10月に総監督に就任すると、矢継ぎ早に補強活動を展開。青田、白石、藤本らを呼び戻し、戦力を整えた。48年、2位に終わったものの、この補強が翌年の優勝に結びつく。この年オフには、南海から別所獲得にも成功。49年にはこの別所の活躍もあり、厳しいペナントレースを制して、1リーグ時代最後の優勝チームとなっている。
48年4月には、南海戦でいわゆる「三原ポカリ事件」を引き起こし、シーズン残りの出場停止処分を受ける(7月21日に解除)など、熱血漢らしい逸話も残している。
2リーグ制のスタートと同時に水原監督が就任したのに伴い、50年からは現場の指揮から離れる。翌51年には西鉄の監督に就任。今度は「巨人を倒す」執念で、若いチームを育て上げ、56~58年の日本シリーズ3連覇という黄金時代を築き上げる。
監督通算214勝143敗
■監督通算成績
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